短編「ゲンコーハン」 (1) 月

 坂を登ったら、何か美しい眺めが見えたり、このくしゃくしゃな心がすっきりするような、そんな救いを信じていたんだ。だから僕は、ぴりぴりと肌をつつくような冬の風の中、こうして自転車をこいで知らない坂を登っている。そんな夢をよく見ては、汗をかいて目を覚ます。夢すら僕に冷たい最近。


 母の体調は下り坂だ。しかも、かるい凸凹のあるゆるい坂。時折、目が覚めたり、僕と少し話をしたり(といっても会話はすれ違い成立しない)、僕が会った記憶すらない父の悪口を呟いたり、ジュースを飲んだり。かと思えば、眠り続けたり、血圧が下がったり、からだがむくんだり。結局は下っているのだけど、凸凹がある分、僕のこころも凸凹で。


 なんせ、もともとが明るくない。スポーツもしないし、本や漫画は読むけれど、勉強はできないし、顔だって一重というくらいで特筆すべきことはない。同級生に、影が薄いという表現をされていたのを聞いたことがある。そういえば、影が濃い人というのは聞いたことがないな、というのが僕の感想で、つまりは他人に関心がない分、他人にも関心を持たれないのだ。


 その日、自転車置き場で、僕の自転車を盗もうとしているヤツがいた。交番は、学校を出て最初の交差点を右に曲がれば目の前だし、現行犯だ。同じ制服を着たそいつの肩を叩くと、振り向いた。顔も名前も知らないな、と思う。


「現行犯逮捕」
「マジか……」


 逃げればいいのに、項垂れたまま動かない。アホだと思ったら、吹き出してしまった。前に笑ったのはいつだったっけ。それくらい久し振りに声を出して笑った。そしたら、なぜか項垂れてたヤツも笑いはじめた。


「ここ、怒るとこだろ」
「お前こそ笑うな」


 自転車置き場でひとしきり笑った。


「だって、フツーこんなボロいの選ぶか?」
「ボロいから盗めると思ったんじゃん。したら鍵だけめっちゃ頑丈なの」
「新しいのが買えないから、鍵は大事なんだ」
「へぇー、学んだわ」
「こんなこと学ぶな」


 現行犯未遂のヤツと、なぜか並んで通学路を歩いている。ヤツは自転車がないから、話すために僕はボロい自転車を引きながら歩いている。


「もう止めろよ」
「だな、俺すぐ捕まるわ」
「逃げろよ」
「それ、ビビって忘れてた」


 ほんとアホなヤツだと、怒る気すらなくなってきて、いっそ笑えてくるのかもしれない。


「じゃ、行かないと」
「どこに?」


どこに。

 これから母の見舞いに病院へ行くのがいつもの予定で。僕はそのことを、担任の教師以外に告げたことはなかった。誰からも聞かれなかったし、僕も誰にも言わない。というか、言うような相手が居なかった。それを実感させられた僕は、立ち止まり、歩き出せなくなった。下を向いたら、辺りはもうほの暗くて、薄い影なんて夜と一体化していた。

 どこに。


「言いたくないならいーけど。あ、月!」


 こいつはどうしてこんなに自由なんだろう。うらやましい。ただ、うらやましく思って月を見上げたら、涙が溢れた。自転車泥棒になりかけてたヤツに、僕は今から行く場所を告げる。ただ、こいつになんとなく話したくなったんだ。