短編「ゲンコーハン」 (2) 竹内

 はじめて会った日、俺はあいつのボロい自転車を盗もうとしていた。現行犯で見つけたあいつは、怒らないどころか俺をアホだと笑った。変わったヤツだと思ったのが第一印象。なぜか一緒に帰る道すがら、いつの間にか昇った月を見ながら、母親が入院していてほぼ毎日見舞っていると、初対面の俺に話してきた。そんな大変な事情を抱えているとは知らず、なんと返したらいいか俺には分からなくて、ただ中途半端な形の月を見上げたまま、そうか、と言ったんだ。

 あいつは、竹内には、祖母がいるらしい。まだ働けるくらい元気で、喫茶店とバーを経営していて商売はまあまあだという。しかし、あいつの自転車はボロい。新しいのを買ってもらえないのかと聞いたら、映子さんはケチだから壊れないと買わないんだ、と答えた。竹内は、祖母のことを映子さんと呼ぶ。映子さんの店で「婆ちゃん」と間違って呼ばせないためというから、徹底した婆ちゃんだ、と竹内は言う。

「竹内ィー、今日チャリ乗っけてって?」

「何が悲しくて自転車の後ろに男を乗せないといけないんだよ」

「駅の近くでバイトなんだよ。そっち行くだろ? 頼む!」


 駅の近くの病院に、竹内は見舞いに行く。俺も一度だけ行ってみたが、静かで清潔なその部屋に入るのは、泥棒未遂の身としては汚れているようで、結局部屋の外で竹内を待っていた。


「今度は何のバイト?」


 脈あり。牛丼の割引券を数枚手渡してニコリと頬笑む。


「俺がいればさらに肉増し」


 舌打ちをして、割引券をポケットに突っ込む。交渉成立。


「お前さ、いくつバイトしてんの?」

「コンビニでしょ? ラーメン屋、たこ焼き屋、ファミレス、それと牛丼屋追加」

「学業は?」

「たまに」

「アホか」


 竹内が笑うとなんとなくほっとする。あの月を見上げたとき、俺はあいつが泣くのを見て、それを思い出すと少し怖かった。悔しいとか悲しいとかじゃなく、なにか人生のどうにもならないものを諦めたような顔をして、すーっと涙を流すあいつは、まだ牛丼に肉を足すくらい若いのに。


「あ、映子さんがバイト探してる」

「マジで?」

「喫茶店の方ね」

「つーか、竹内がやれば?」

「そーすると手伝いになり無給」

「あーさすが映子さん。考えとくわ」

「いや、どっか止めたらにしろよ。学校来れなくなるぞ」 

 確かに。俺は二回目の高校二年生をやっているわけで、竹内とは同級生だが、俺のがひとつ上だ。竹内が俺を知らないのも無理はない。ひとつ上のあまり学校に来ないヤツを知ってる方が不思議だ。


「来週から試験だぞ」

「初耳」

「教えないといつも初耳なの止めろ」

「だって竹内君がいつも教えてくれて、優しいんだもーん」


 帰り道。自転車で二人乗りしながらふざけて竹内に抱き付くと、漕ぎながら蹴りを入れてくる。


「二人っきりで、勉強会しちゃう?」

「時給千円なら」

「とんだぼったくり」


 竹内が笑った。だって、こいつも大して頭が良いとはいえない。本人曰く。

「映子さんは、貯金してるからお金のことは気にせず大学に行けって言うけどさ。実際、中の下くらいの学力で得意ってもんもないし。母さんのことも考えると、今はなんか先が想像できない」

 俺は、高校出たら何かしら働こうとは思っているが、これ、って何かがあるわけでもなく。あれこれバイトをしながら自分に合いそうなものを探してはいるが、一生、なんてものはなかなか見つからない。

 前を向いてしか漕げない自転車に乗りながら思う。重なるところの少ない生き方をしながら、先が見えない、という同じ悩みを抱えている。それでも俺たちは、前に進むしかなくて、今を笑うことでしか、今を軽くできないことをぼんやりと知っていた。