短編「ゲンコーハン」 (5) 能天気と修羅場

 きみも僕も知らないひとも、空から見たら「すぐに消えて無くなる物」だと分かっていたら、僕はもっときみを丁寧に扱えたのかもしれない。

「あ、その服新しい?」

「大学前の古着屋で買った」

「へぇー…誰かと行ったの?」

「きみの知らない子」

「え? 誰」

「誰かは知らなくていいけど、寝た」

 そんな饒舌な目で僕を見ないでほしい。何が起こったのか分からないというような、僕が全面的に悪いと責めるような、悲しくて悲しくてこの世の終わりを願うような。僕があまりに黙ったままでいるので、彼女はとうとう潤んだ目をしてアイスミルクティーをズズッとすすり、立ち上がった。

「竹内くんさ、そうやって何も言わないのズルい……言い訳もしないの? あたしだけがいっつも好きじゃん…!」

「シてるときは楽しかったで

 言い切らない内に、ビンタが飛んできて、別れる、と言った彼女は小走りで喫茶店を出て行った。フラれたらしいが、頬の痛みの方が強くて、彼女の顔すらもうあまり印象に残っていない。潮時だった。

「コーヒーのおかわり、いかがっすかー」

「沖田、クビんなるぞ」

「お前こそ、毎回この店を修羅場にするな」

「コーヒー追加で」

 へーへーと言いながらホットコーヒーをカップに注ぎ、沖田は厨房へ消えた。そのうち映子さんの耳にも入るだろうが、大学生活を詮索されるより、この店でデートしたり別れたりした方が手っ取り早い。

 まだあのオンボロ自転車は現役で、それと電車を乗り継いで、大学に通っている。母が死んでから、僕は少しだけモテるようになった。ゼミの飲み会なんかで、隣の女の子に出身とかを聞かれちょっとお互いの身の上を話して、その夜は普通に帰る。すると、隣にいたあの女の子からいつの間にかLINEが届き(大抵は同じゼミの誰かに教えてもらったという)、のらりくらりと返信したりすると、どっか行かない? となり、竹内くんって可哀相などと勝手な想像を募らせて告白される。

「お前さ、女を泣かせてひっぱたかれたりして、母ちゃん天国で泣いてるぞ」

「まあ見てはいるかもなぁ」

「なんだその能天気」

 沖田だって、それなりにモテている。客には手を出すな、という映子さんの言いつけを破り、一度寝たという女が営業中に三人揃ったときは恐ろしかったという。嘘の付けない沖田は、その場で三人に土下座して馬鹿正直に「誰も恋人じゃありません!」と言い放ち、一人は頭を踏み、一人はアイスコーヒーをぶっかけ、一人は「クズ…」と呟いて帰ったというから、僕の方がまだマシだと思う。その一件で映子さんからクビを宣告されたときは、僕が間に入ってなだめたのだ。能天気はどっちだ。

 僕は執着が怖い。はじめは好きだと言って寄ってきたひとが、いつの間にか、僕にも好意を求めてくる。だいたい、何か食べに行ったときお互いのものを分け合おうとしたり、LINEの返事をずっと待っていたと怒ったり、買い物に付き合ったらこれ似合いそうと服をすすめられたりすると、僕は急にその子のことが面倒になる。これを沖田に話したら「お前サイテーだな」と爆笑されたが、自分でも良くないとは思っている。

「あれだな、お前と付き合う女って、映画借りるとき "絶対泣けます" みたいなパッケージ見て借りちゃいそうなタイプが多いな」

「僕で泣きたいんだったら需要と供給が合ってるってことになる」

「最終的にな。思ったのとはちがう形で」

「うるさい」

 高校生のころ、僕は母への執着を捨てる日々を過ごしていたのだと思う。ちょっとした好転反応に揺れ動く心を、それでも死に向かうのだと何度も頭で反芻しては、あの静かな部屋でいくつもの願いを捨てた。ゆっくりと花占いでもするかのように、一枚ずつ花びらを落としていった母は、最後に茎が折れるまで生ききった。骨になった母を見たときは、さすがにものすごく泣いたけれど、それはこの世に引き留めておきたい、というような涙ではなく。肉体すら手放した母は、どこまでも行けるくらい軽くなり飛び立ったんだな、という圧倒的な解放感からだった。そこから僕はなぜか「サイテー」な男になったらしい。

「彼女作んの、止めたら?」

「あれだ、相沢さんに髪切ってもらうの止めるか」

「なんで?」

「いや、相沢さんのヘアモデル始めてからモテてきた気がするから」

「俺もしてるけど」

「節約になるしなー」

「それ」

 相沢さんは美容学校を卒業して、地元でも系列展開している美容室で働いている。僕らはカットの練習台として営業時間後に呼ばれるのだが、時間は掛かるものの、相沢さんの腕前は上がってきた。「やば、通常の二倍カッコ良くなるじゃん」と切りながら自画自賛するので笑えるし、確かに髪形で随分と変わるものだと切り終えた自分を見て思う。それに、相沢さんは彼氏がいて、僕を恋愛対象にしないので楽な友人関係が続いている。

「あのさー、誰だって死ぬんだぞ」

 閉店後の喫茶店の片隅で、入り口近くの窓を拭きながら唐突に沖田が言った。

「知ってるよ」

 本当にそう思ったし、母を亡くした過程を知っている沖田に言われると、若干怒りすら覚えた。沖田は続けた。

「うん、お前の経験した身内の死ってのは俺にはまだ分かんないよ。ただ、今日 "竹内くんが好き" だったあの子も、いつかは死ぬし、それがいつかは分からないことも多いんだってこと。俺も含めて、みんな生き物で、物はいつか急に壊れたりするし。そしたらさ、お前は後悔する方じゃないの? ってことを、俺は今までを見て思う」

 アホだと思っていると、時々痛いところを突いてくる。

「沖田は怖くねぇの…? こっちはさ、スゲー怖いんだよ。何のつながりも無かったのに、好きになられたり。かと思えば、僕の心を動かそうとしてきたり。そういうの嫌なんだよ…。死ぬだろ…いつか勝手にいなくなるだろ! そんな不安定な生き物なのに、なんでみんな恋とか、好きとか、簡単に言えんのか…訳わかんねぇ…」

「それをさ、言えるヤツと付き合えよ。あ、俺以外で」

「もうお前と喋りたくない」

 沖田が大人ぶって笑って、僕はそんな女いるかと不貞腐れた。窓から月の光が差し込んで、店内は不思議と明るかった。

 お母さん、サイテーな僕を見ていますか。僕はまだ、恋や愛から逃げられると思っていますが、それは許されないことなんでしょうか。

 返ってこない投げ掛けを散々してきた僕は、たぶん今、情けない顔を月明かりに晒していることを知っていた。