短編「ゲンコーハン」 (6) 虎児を得る

 あの日、電話が鳴らなければ良かったと思ったけど、鳴ったから僕は動いた。電話が鳴らなかったら、おそらくいつまでも後悔したままだっただろう。


 沖田から「大事な話がある」と新年早々呼び出されて、年始休み中の喫茶店に行くと、そこには相沢さんがいて、僕が片手をあげると、何だか気まずそうに笑った。

「け……」
「落ち着け」
「そうだよー。今までとほとんど変わらないしー」
「とりあえず籍入れて、式とかまだ考えてねぇし」
「あたしは着たいけど。白無垢」
「相沢さん、似合いそう……」
「やっぱり?」

 何の話かと思ったら、沖田と相沢さんが結婚するという報告だった。驚いたが、いつから、なんて聞くのは野暮でしかない。同じ団地で育ち、僕から見たら兄と妹のようなふたりの関係は、それが恋人に変化したとしても、お似合いだとしか思わなかった。

「あ、まだ言ってなかった。おめでとう!」
「竹内くん、沖田とは今までと同じようになかよくしてね」
「ん? うん」

 相沢さんが満足そうに頷いた。沖田がため息を吐いて、付け加えた。

「アイちゃんさ、俺らが付き合ってると思ってたんだって」

 どこでそんなフラグを立てたのか、まあ何となく分かったけれど、あれは墓まで持っていく系のフラグだ。ないない、と笑って手を振りながら、沖田の存在が年々重みを増していることは事実。今春、僕は大学を卒業して喫茶店で働く予定だし、沖田はバーに移る。

「ひとつ、問題があってさ」

 沖田の声のトーンからこっちの方が本題な気がして、嫌な予感に僕は眉をひそめた。

「アイちゃんの元カレが厄介でさぁ。同棲してたとき、帰りが遅いっつって怒ると物投げたり、独占欲が暴走するタイプらしくて。別れるのもかなり面倒で、アイちゃんが荷物持って出てこうとしたら数日閉じ込められたり。で、そいつが留守のときに俺が連れ出したんだけど。それが半年前」

「……本題これかぁ」

「そ。アパートの管理人にアイちゃんの兄だって嘘吐いて鍵開けてもらったんだよね。したら、そいつからアイちゃんに何度も着信あって。留守電がズラーッと同じ台詞でね」

「うん。……店に、こないだも来たんだよね。さすがに他のスタッフもいたから何もされなかったけど、なんかもう怖くなっちゃってさ」

「警察行った方がいいんじゃない?」

 相沢さん顔色が悪いな、と思うと、突然彼女は立ち上がり、トイレに駆け込んでいった。

「まさかお前、妊娠…」

「させてねーよ。あれはさ、ストレス? 最近そいつの話になると、アイちゃん吐いちゃって。警察には二人で行ったんだけど。着信履歴とか留守電の量はおかしいけど、内容は全部 "許さない" みたいのだから、こう脅迫みたいな決定打が無いと動けないって」

「……相沢さん、こんなに苦しんでんのにな」

「アイちゃん、俺と結婚するのもそいつにバレたら怖いから止めるって言い出しててさぁ……そこで相談なんだけど」

「嫌な予感しかしない」

「そいつに決定打があるのか確かめようと思って」

 こいつは本当にアホなのか、と僕は沖田と数秒間見つめ合ったが、まっすぐこちらの目を見てくる沖田は、やはり本当にアホなんだと思い、ため息を吐いた。ガチで虎穴に入って行くタイプだ。

「どうやって」

 そう聞き返した僕もアホに違いない。


 数日後、沖田が相沢さんの携帯から元カレに電話して会う約束を取り付けたと、日時と場所をLINEで送ってきた。今日じゃないかアホ、と返す。場所は駅と大学の中間くらいにある、大きな公園だった。僕は一足先に行き、隠れながらスマホで一部始終を動画撮影する役目だ。

 最近は漕ぐだけでキーキー音を鳴らす自転車で公園に来た僕は、指定された噴水前で降りると、周囲に人がいないのを確認して、自転車ごと近くの繁みに隠れた。日が暮れてきた。そろそろ時間だ。人通りは無く、噴水は凍っているので音を拾うのには好都合だが、肌寒さに身震いした。何で室内にしないんだと、沖田に対して怒りを覚える。スマホは充電済みだし、いつでも撮影OKですよ、と待っていると、そういえば何でこんなことをしているのだろうと真顔になり、空を仰いだ。細い月がこちらを見下ろしていた。

 沖田は相手を焦らすため、わざと少し遅れてくると言っていた。この噴水を前にして並んだベンチの、右から五番目に座ったヤツが、相沢さんの元カレ。沖田がLINEで送ってきた男の特徴は、四十代、中肉中背でいつもグレー系のスーツ、結構大手の会社員。って分かるかこんなんと悪たれる。相沢さんは、顔を見るのも嫌だと、そいつの写真データを全て削除してしまったらしいから、まあ仕方無い。

 五番目のベンチに誰かが座った。暗くなった中、動画を夜景モードにすると、顔が見えた。これで撮影準備は大丈夫だと思ったら、沖田がすぐに現れた。あいつ待てなかったんだな、と慌てて、録画をはじめる。

「諏訪さんですか? 連絡した沖田です」

「……はい」

「突然ですけど。アイちゃんから聞きました。あんた彼女が出て行こうとしたとき、連れ戻して殴ったんですってね」

「え」

 思わず声が出て、僕は自分の口を覆った。

「アイちゃん、ちょっとおバカさんだから、そのとき身体に痣がいくつかできたけど、痛くて悲しくて、写真に撮るの忘れてたんだって。せっかくの証拠だったのに。あんたには笑えることでしょ」

「用件は……呼び出したのはそっちだろ?」

「俺が連れ出して、彼女はやっと逃げられたのに。あんたからの電話とか付け回す行動に、かなり迷惑してるんですよね。もうやめてもらえます?」

「俺が許さないのは自由じゃないか!」 

 諏訪という男は、突然大きな声を出して立ち上がった。沖田もつられて立ち上がりながら続ける。

「思ってんのは勝手にどうぞですよ。ただ、電話掛けまくったりとか店に来たりとか、彼女が怖がっているんで、関わらないでください」

「お前に関係あるのか……?」

「はい、結婚するんで」

 諏訪の表情が変わったと思うと、沖田に殴り掛かった。背も体躯も沖田の方が大きいし、きっと本気で殴り合ったら沖田は勝つ。でも、あいつはそうしなかった。地面に両手を広げて寝そべり、あの男に殴られ続けている。僕がこの状況を撮っていることを信じているから。スマホを持つ右手が細かく震えるのを、脇を閉じ左手で押さえつける。もう少し待て。沖田が右手の親指を立てたら警察に電話しろと言われていた。どれくらい経ったのか、もう分からない。沖田に意識があるのかすら、もう。

 電話が鳴った。映子さんからだ。LINEの着信音が辺りに響き、沖田の腹を蹴っていた諏訪がこちらを見た。マナーモードにするのを忘れていた僕は、自分を殴りたかった。ここで撮影を止めようか迷ったが、沖田のサインはまだない。

「誰かいるのか!」

 諏訪がコートの右ポケットに手を入れた。本当に嫌な予感しかしない。沖田の顔にズームすると、それはすぐに後悔へと変わった。開けた口から歯が何本か無いことが分かる。あと鼻が曲がっている。折れているかもしれない。息はしている。ここまで撮ればもういいだろう。僕は撮るのを止めた。映子さんから着信の鳴り続けるスマホを上に掲げて持ち、繁みから出た。

「沖田の友人です。今日のここでの全てを撮影しましたので、警察と職場、また、あなたにダメージの多そうなところに提出させてもらいます」

 はじめて目を合わせる男の顔が歪んでいく。余計なことを言ってしまったかもしれない。諏訪は右手に小さなサバイバルナイフを持っていた。スマホを壊されるわけにはいかないし、沖田は何か喋ろうとしていたけれど、口腔内にたまった血でむせていて何も話せなかった。耳鳴りがする。

「それを渡せば、お前は許してやる……」

 諏訪がナイフを突き出しながら、こちらにじりじりと近寄ってくる。ナイフを持つ手が震えていた。沖田が掌を地面に叩き付ける音がする。

「あんたの許しなんて、誰もいらないんだよ。相沢さんも、沖田も」

 ヤツの手がブルブルと震えている。この理不尽な怒りを抱えた相手を前に、僕にできることは何だろう。沖田はアホだけど、いつのまにか僕に説教するくらいの仲になった。いま反撃せず殴られていたのだって、証拠を得るためには賢いとすら思う。はじめは僕の自転車を盗もうとしていた現行犯だったはずなのに……。僕にできることは、何だろう。

「沖田! お前が警察呼べ。こいつ現行犯な!」

 意識は俯瞰していき、どこからか別の視点から僕の行動を眺めていた。僕はスマホをさっきまで隠れていた方向へ投げ捨てた。それから、諏訪のナイフを持った右手を両手で掴んで、僕の左の太ももに突き刺した。あまりに痛くて思わず叫び声をあげる。恐怖で顔をひきつらせた諏訪が尻もちをつき、後ずさりする。僕は左足にナイフを刺したまま、足を引き摺って歩き、諏訪の前に来た。そして、右の拳を思いきり持ち上げて、諏訪の右頬を殴った。頭を抱えてうずくまる諏訪がいて、僕は沖田がズボンの後ろポケットからスマホを取り出すのを視界の端で確認した。察して逃げようとする諏訪を、僕は上から押さえつけ、顔面を中心に殴り続けた。サイレンが鳴る。耳鳴りと混ざって、悪夢の中にいるみたいだ。警察官が数名、遠くから走って来たのを目にしてやっと、僕は意識を手放し、地面に倒れることができた。


 僕を見ていますか、お母さん。足も痛いですが、手も痛いです。ひとを殴るのはこんなに痛いのに、どうして殴るんでしょうね。僕は今日、はじめてひとを殴りました。