短編 「ワカちゃんの結婚 続」

「ちょっと、今いいかな?」

 上司に呼び出され、取調室のような狭い会議室に通される。何か仕事でミスをしたのだろうかと、ワカちゃんはここ数日をぼんやり思い返していた。

「田宮くん、きみ、結婚したそうだけれど、おめでとう」

「あ、どうもありがとうございます」

「それでね、あのー、これからのことなんだけども」

 ワカちゃんは首を傾げた。どうやら仕事の内容ではないらしい。

「きみは旦那さんの扶養に入るのかな?」

 部屋の机の上に置いてある、ローズマリーの鉢を思い浮かべたワカちゃんは、お腹の奥の方から込み上げてくる笑いを必死に堪えた。

「ふっ……、二人で話したんですけど、仕事はこれまで通り続けますので、夫の扶養には入りません」

 上司は顔をほころばせ、安心したように頷いた。

「それは良かった。田宮くんはこの仕事に馴れているから、助かるよ。これからもよろしく頼むよ」

 席を立つ上司にお辞儀をして、会議室を出る。ワカちゃんは、扶養という言葉の響きを確かめるように頭の中で反芻した。ふよう、ふよう、ふよう、ふよう。どこか漂うような響きだ。扶養ならわたしがしているようなものだけど。ワカちゃんは今朝、栄養材の小さなボトルを植木鉢の土に差し、水をあげてきたのだった。

 昼休み。ワカちゃんが席でお弁当を食べていると、首から名札を下げた女性が近付いてきた。

「こんにちは、休憩中にすみません。わたくし、⚪⚪保険のコバヤシと申します。今日は、こちらの会社にお勤めの方へ、パンフレットをお持ちしました。どうぞ」

 なぜか飴2つとともに差し出されたそのパンフレットを、ワカちゃんは受け取ってしまった。

「ご興味がありましたら、しばらくこのフロアにおりますので、お声掛けくださいね」

 ワカちゃんが小さく会釈すると、手ごたえを感じなかったのか、コバヤシさんはほかの人に移動した。お弁当を食べながら、パンフレットを開いてみると、ワカちゃんは自分が苦手とするものだとすぐに気が付いた。

 保険って、未来を考えることなんだろうか。起こりうるリスクを考えることなんだろうか。他人に迷惑を掛けないことを考えることなんだろうか。たぶん、それぞれにそのような目的はあるんだろうけれど、ワカちゃんはひとを不安にさせるものが苦手だった。そして、保険にもそのようなにおいを勝手に感じてしまうのだ。

 ワカちゃんには、"保険" というものをどう選んだら良いのか、よく分からなかったし、世の中に同じことを思うひとはいないのだろうか、と疑問に思っていた。テレビをつければ保険に当たるって程度には、そのようなCMが流れていると感じる。しかし、その保険のどれがどのくらい自分に必要なのかはピンとこないし、そのようなものに安心が付いてくるとは思えなかった。わたしは馬鹿なんだろうか。ワカちゃんはパンフレットをめくりながら、生命保険のページで手を止めた。

 ワカちゃんが保険にまったく入っていないのかと問われれば、住んでいるアパートの契約で火災保険と借家人賠償責任保険、職場では労災保険雇用保険、健康保険、厚生年金も老後の保険みたいなものだとすれば、入っていると言える。

「たいせつなひとの未来のために」

 生命保険のキャッチコピーにはそう書いてある。うちのローズマリーのためには、わたしがいなくなったとき、お金というより世話をしてくれるもらい手が必要だな、とワカちゃんは思う。もちろんそんなプランは載っていない。

「遺言でも書いておこうかな」

 まるで新婚とは思えない独り言を口走り、ワカちゃんは思わず口を押さえる。お弁当箱をしまい、パンフレットを閉じると、下からもらった飴がコロンコロンと出てきた。いちご味のそれをひとつ口にほおりこんで、ワカちゃんはパンフレットをゴミ箱に捨てた。とりあえず、この保険は必要ではないと分かったのだ。

「わたしに必要な保険がなければ、作ればいいのにね……」

 でもどうやって、という問答がはじまるところで、昼休みが終わった。何が「たいせつ」なのかくらい、自分で決めさせてくれと思いながら、ワカちゃんは鳴った電話をワンコールで取った。

終わり