短編「ゲンコーハン」 (4) バトンタッチ

 卒業式の三日前、母親が亡くなった。担任から朝の連絡事項の一つとして告げられ、通夜の時間を聞き出したと言って、少し苛立ちながら沖田がやってきた。

「なんで喪服なんて持ってんの?」

 僕の第一声に沖田は呆れた顔をした。

「お前なー…ちゃんと拝ませてもらうから。ご愁傷様です、くらい言わせろ」

 随分と久し振りに化粧をした母の顔はまだ寝ているようだけど、映子さんからの連絡で深夜の病室に駆け付けたとき、すでに心臓は動いていなかった。焦って自転車を漕いだから、汗が背中をつたうのが分かる。危篤の報せは、映子さんにするよう決められていたことを、顔見知りの看護師から初めて聞いた。母の手を握って泣く映子さんに「何で教えてくれなかったの?」と尋ねたら、「あたしが母親だから。先に子が逝くなら、最期はちゃんと見送る」と言って、また盛大に泣いた。

 何やら時間を掛けて拝んでいた沖田は、ご愁傷様です、と口にしたら気が抜けたのか、はじめましてって言ったら伝わりそうな感じすらした、と感想を述べた。よく知らない親戚に「大変だったわね」「可哀想に」とベタな気遣いをされるより、よっぽどマシな気分になる。ぽつぽつとしか人はいない。菊の中でも花弁の多いカラフルな種類を集めて、と映子さんが指定して、ふわふわの花に埋め尽くされた母はとても気持ち良さそうで、不幸には見えなかったと僕は思う。

「オヤジの借りてきたけど、クセーのこれ」

 嗅げというので鼻を近付けると、顔をしかめた僕を見て笑った沖田は、卒業したら、映子さんの経営する喫茶店で働く。高三になる春休み、店に連れて行ったのが発端で。僕らのしゃべる様子をじっと眺めていた映子さんが突然、この子のような真面目くさくて暗いヤツとつるむとは大した根性、とディスった孫の前でスカウトしたのだ。ゆくゆくはバーテンダーになってもらう、という誘いに、接客のバイトしかしていなかった沖田も乗った。ノリのいい祖母はそこで思い付いたように僕へ目を向け、お前は大学で店の経営を学びなさい、と進路を決めてしまった。

「卒業式、出られないからさ。卒業証書かわりにもらっといてくれる?」

「了解。忘れてたらスマン」

「まあ、紙だしどうでもいいけどな」

「あ、相沢忘れてた」

「は?」

 僕のアレがソレだったとき(敢えて言いたくはない)、相沢さんと沖田が解決してくれたことがあった。それから相沢さんには会っていないが、沖田が喪服を探して騒いでいることを近所で聞きつけ、知られてしまったという。しかも、なぜか付いてきたので外で待たせているらしい。

「一応制服で来てるけど……帰らすか?」

 一瞬迷ったが、入ってもらうよう沖田に伝えた。相沢さんは、スカートは短かったけれど、僕と顔を合わせると「このたびは本当にご愁傷様です」と頭を下げた。

「わざわざ足を運んでもらって、なんかすみません」

 僕がそう返すと、「竹内くん、こういうときはあやまらなくていいんだよ」と言って、母の前に行くと、静かに手を合わせた。映子さんからの「誰だ」という無言の圧も感じたけれど、後で沖田の彼女ということにしておこう。

 母に女の子を紹介したことは一度もなかった。明日火葬される。花に囲まれ横たわる母と、拝むミニスカートの相沢さんの画。生きている内には出来なかったことが、いまひとつ思いがけずポッと消化されたような気がした。この瞬間を僕は忘れないだろうな、と頭のどこかで思った。

「今日は二人とも、ありがとう」

 沖田と相沢さんを見送ると、沖田は「またな」と手をあげ、相沢さんは「あたし美容学校行くんだ。美容師になったら髪切ったげる」と言って右手をチョキにして僕の前髪を切る真似をした。最後に相沢さんが僕をぎゅっと抱き締めて「最近はだいじょーぶ?」と聞くので、沖田は相沢さんの後頭部を叩くし、僕は思わず笑ってしまった。

 外はしっとりと暗くて、月が出ているか見上げた。白い息が空に消える。オリオン座が見える。

 お母さん、バトンタッチしよう、星にならなくてもいいけど、空から今度は、僕を見ていて。