短編「ゲンコーハン」(7)友のしるし

 曲名も知らないピアノ演奏を聴きながら泣く僕は、なぜ泣いているのか全く見当も付かなかった。ただ、心を硬く幾重にもコーティングしてきたはずなのに、その微かな隙間から何か柔らかなものが侵入してきて、それがあまりに温かく、冷えていた心が徐々に汗ばむように涙がこぼれたのかもしれない。

 沖田と相沢さんの披露宴に登場したピアニストは、はじめこそワーグナーの結婚行進曲というベタな演奏をしていたものの、それから僕らが食事をしている間ずっと演奏を続けている。どこかで聴いたことのある曲にジャズのようなアレンジが入り、静かでありながら、この場を祝福している音楽に、僕はいつしか耳を澄ましていた。そして気がつけば泣いていた。


「失恋か」

 映子さんが笑いながら、僕の左の太ももをピンポイントで突く。

「え、うぁ、泣いてたのか。そこ傷痕だから止めて」

「あれだけ年寄りを心配させたのを忘れたのかい?」

「すみませんでした」

 この話題を出されると僕は弱い。一年前、相沢さんの元カレと沖田の決闘に丸腰で飛び込んだ僕は、確かにアホだった。結果、沖田は歯を4本失い差し歯になり、鼻は骨折していたため手術をした。沖田曰く「前より高くしてもらった」といった余裕に比べ。自衛のため相手の持っていたサバイバルナイフを左の太ももに突き刺した僕は、出血量はぎりぎりだったらしいが、靭帯を損傷した。リハビリにも通い、こうして痛みなく歩けるまで随分時間が掛かった。そして、相沢さんが勝手に「愛のしるし」と名付けた、縦に4センチほどの少し盛り上がった傷痕。その呼び名は止めてほしい、と本気でお願いした僕を見て、沖田は笑っていたっけ。

 その二人はいま、新郎新婦として目の前に座っている。沖田は黒い紋付羽織袴、相沢さんは白無垢を着て。新郎側の家族は沖田の父親だけで、長年父子家庭で育てた息子の祝いの門出に、既に酔って赤い顔をしており、相沢さんの両親に心配されている。黒髪と赤い唇に白無垢がよく似合う相沢さんは、さっきから何人かの美容師仲間が写真を撮りに集まり、沖田は少し面倒くさそうにそれに付き合っている。

 あの諏訪という男も一緒に搬送された。正当防衛と認められたとはいえ、僕が見境なく殴ってしまったので、彼の顔面もなんらかの治療が必要になったという。傷害致傷で現行犯逮捕され、相沢さんとの件を警察が把握していたこともあり、起訴された。実刑判決になるかというところで、沖田は「これから相沢さんの前に一生顔を出さず、連絡もしないと約束するなら、今回は示談でいいです。治療費は払ってください。次はないですよ」と話をつけてしまった。甘いな、と僕は思ったが、相沢さんもそれでいい、と納得していたというので、もうこれ以上口を出さないでおこうと決めた。

「ではここで、新郎新婦のご友人を代表しまして、竹内様よりお言葉をお願いします」

 友人代表なんて勘弁してほしいと沖田に言ったが、これまた相沢さんの要望というから、祝いの席にごちゃごちゃ言うのもなんだな、と引き受けてしまった。僕が用意した封筒を手に立ち上がると、ピアニストは弾いていた曲を和音のグラデーションで転調し、新しい曲を演奏し始めた。人前式ということもあって、ここに神はいない。それがなんとなく、僕に安心感を与えた。司会の女性からマイクを受け取り、封筒から原稿を取り出す。あとは読むだけだ。僕はマイクの電源を入れ、喋ろうとした。沖田と相沢さんを見ると、二人とも呑気に笑っていた。それを見たとき、僕と沖田が出会ったあの夕方を思い出した。

「沖田、相沢さん、ご結婚おめでとうございます。僕が沖田と出会ったのは、高校の自転車置き場でした。こいつは、僕の自転車を盗もうとしていました。つまり、泥棒です。今だったら、写真でも動画でも撮影して、警察に突き出すこともできました。でも、僕の自転車は錆付いてオンボロだったんです。そんな自転車を盗もうとするなんて、こいつはどんなアホなんだろうって思って、顔だけみてやろうって……」

 自分が泣いているのが分かったし、用意してきた原稿はこれじゃなかった。

「それで、現行犯逮捕だと声を掛けたら。こいつ、笑ったんですよ。僕はその頃、母親が癌で闘病してて、友達もいなくて、学校が終わったら病院へ見舞いに行く。ただそれだけの日々でした。そこに沖田が現れて、その日、僕は自分が誰かとずっと……ずっと話がしたかったことに気が付いたんだと思います。母が亡くなったときも、覚悟はしていましたが、やっぱり悲しかった。そのときも、そのあとも、沖田という話せるヤツがいて、それは……救いっていうと大げさかもしれないけど……確かにあの辛いときの僕を支えてくれたと思います。素敵な出会いとかなんかじゃなくて恥ずかしいですし、墓まで持っていくような話もあるし、血まみれの顔も見たので……沖田が幸せでニヤけてる姿を今日、ここで見れたのは本当に嬉しいです。ありがとうございました……!」

 何とかまとめて頭を下げ拍手をもらったものの、僕は泣いて鼻水まで垂らしていて、恥ずかしくて顔を上げられずにいた。そのとき、隣に黒い男が立ったかと思うと、僕をお姫様抱っこして持ち上げた。沖田は前より高くなったという鼻を少し赤くして、泣いてんじゃねぇよ、と呟いて、僕の顔にテーブルナプキンを掛ける。ここでピアニストが、なぜか結婚行進曲をアップテンポで演奏し始め、調子に乗った沖田はナプキン越しに僕にキスをした。相沢さんの黄色い歓声が聞こえる。僕は「こんなとこでふざけんな!」と暴れて、沖田の腕から抜け出し、ナプキンで顔を拭いながら席へと戻った。泣いて損したと放心しながら、大役の荷が下りほっとした僕の頭の中から、音が遠ざかっていく。周囲を見回すと、沖田も、相沢さんも、映子さんも、みな笑顔で。神様を信じない僕は、どこかで見ているはずの母に、ただ感謝するしかなかった。