短編 「ワカちゃんの結婚」

 その大型ショッピングモールの一画にある、全国チェーン展開しているガラガラに空いた宝飾店で、わたしはひとり、結婚指輪を選んでいた。相手は諸事情があって来れないんですけど今日買います、と店員の男性に告げ、プラチナで宝石は裏に一つ埋め込まれているもの、という条件で、店内の指輪をかき集めてもらった。突如やって来た目的のはっきりした客の対応にあちこちの棚を開いてまわる店員を眺めながら、指輪を買うなんて何年振りだろう、と回想しかけたが、無意味なのでやめた。今の、このワクワクとした浮き足だった気持ちを壊してはいけない気がしたのだ。

 結婚相手などいない。恋人もいない。さらに続けるならば、結婚できそうな気もしないし、結婚したいのかもよく分からないし、最後に付き合ったのは男性であったが、それが数年経ち、本当に男性が好きなのかもよく分からなくなった。しかし、結婚していないと知られると、ほどほどの田舎ではいまだに何らかの意味を問われたりするのだ。本心のまま、ご自由に想像してください、とはなかなか言いづらい。そこでわたしは、結婚することにしたのだ。夫不在のまま。夫婦別姓として、何者かと結婚したことにする。わたしは相手もいないのに、結婚へと続く道を歩き始めてしまった。その第一歩が指輪だ。目の前には傷ひとつない指輪が並べられていく。これが日常のなかで傷ついていくことを、しあわせと呼べるのだろうか、などとJpopの歌詞みたいなぼんやりとしたことを思いながら、わたしはごくシンプルな指輪をカード一括払いで手に入れた。

 職場の朝礼で結婚の報告をすると、あまりに突然過ぎたのか、みな不可思議な顔をして、それでも拍手をしながら「おめでとう」「良かったね」など当たり障りない言葉を掛けてくれた。普段から、特に聞かれなければ私の生活の話をしないにしても、朝礼が終わると今回ばかりはと聞きたそうにみなが質問するので、「恥ずかしいのでまた」とだけ答える。注目を浴びすぎたせいで、頬が熱を帯びてくる。演技ではないのに、よき働きをするではないか頬。わたしは家に帰ってもひとりなのに。「今日は職場で報告して、なんか恥ずかしかったな~」と独り言つだけなのに。なぜかとても自由な気持ちなのだった。左手の指輪は、窓から射し込む光を跳ね返していた。

 数日経った職場での昼休み。会社で唯一元カレの話をしたことがあり、お互いに独身と認識していた総務部のツルちゃんが、ランチしよ、とLINEを送ってきた。OKの返事をスタンプで送りながら、この嘘を貫けるだろうかと急に不安になる。THE田舎に住んでいる東北訛りの両親には、思い付きで始めた詐欺みてぇなことは説明できねぇので、察しの良いツルちゃんにも真実は黙っておこうと決めた。

「おめでとう~! ねぇ、誰か紹介してよ~!」

 多少の緊張感とともに、待ち合わせのパスタ屋へ行くと、ツルちゃんはカルボナーラを先に食べていた。わたしは誰かと待ち合わせをすると水だけで待っているタイプなのだが、そうだ、ツルちゃんはたいてい待たずに食べているのだった。なんとなく、ホトトギスと武将の関係を現した句を思い出す。

「なにボーッとしてんの、昼休みは限られてんの! おごるから注文して」

 ランチは手作り弁当、外食するならワンコインまで、という倹約家のツルちゃんがおごってくれるというのは地味にうれしい。そうだ、ここのパスタはすべてワンコイン内だった。

「ツルちゃんありがとう。じゃあ、すみません、ペスカトーレください」

 水を持ってきただけの店員に、すみませんを言うあたり、直したいなと思う。こちらは注文したばかりだというのに、向かいの皿はきれいに空っぽになっていた。セルフサービス用に置かれたピッチャーから水をおかわりしながら、ツルちゃんがこちらを見た。

「旦那さんってどういうひとなの?」

 それ核心部。手元の腕時計を見ると、あと三十五分は話せる残り時間があり、耐えられるか心配になった。

「大丈夫、あたし誰にも言わないっていうか、ワカちゃんしか恋バナするひといないし。うれしいのよ、なんかさ」

 わたしはそれを聞いて、真実を告白したくなるくらい感動してしまった。わたしの (偽の) 結婚をこんなにも素直に喜んでくれるひとがいたのだ。

「ありがとう、わたしもうれしい。彼は……無口で、こうガツガツしてない……草食系? 存在してるだけで癒されるって感じかな…」

 すべて嘘だけど、少しでも嘘のないようにと絞り出したワードに存在感があって自分でも驚く。ツルちゃんはちょっとずつ水を飲みながら、ただ頷いて聞いてくれた。

ペスカトーレお待たせしました」

 メニューの写真よりひとまわり具の小さなペスカトーレを口にしながら、まあ口周りも汚れないし美味しいからいっか、と食べ進める。ツルちゃんはまた水をおかわりして、日本酒かよってくらいちょびちょびと飲んでいる。

「やっぱ、紹介とかいいわ。ワカちゃんが結婚してもそのままで、安心したし。わたしもこのまま焦らず生きてくわ」

 ほかの男性など紹介できないわたしは、ただツルちゃんが水を飲みながら自己完結に至ってくれて、ありがたいと思った。ワンコインのランチといえど、お返しは何にしようか考えていた。なにか潤うもの、ハンドクリーム……あ、ハーブの香りなんかいいな。総務部のツルちゃんは、いつもハンドクリームを常備していた。

 定時であがれた金曜の夜。わたしは近所のホームセンターに寄った。日用品の足りなくなった買い置きをかごに入れながら、ハンドクリーム売り場でツルちゃんに渡すものを選んだ。ハーブの香りはいくつか見付かって、試供品を出しては塗ってを試していたら、潤うどころか手がベタベタになった。会社で使うだろうしと、無難にラベンダーの香りのものにする。

 トイレで手を洗い出てくると、そこは春に向けたガーデニング売り場だった。カートを押しながら、「育てやすいハーブはお料理やお茶にも❤」というPOPとハートマークに惹かれて近寄ってみると、ハーブが何種類か並んでいた。知っているものがいくつかある。葉っぱの部分を触って、少し顔を近付けて嗅いで、食べたことのあるものは味を思い出して。ローズマリー。実家にいた頃、鶏肉とレモンと一緒に庭のハーブとソテーした料理は、母の迷ったときの一品だった。そこにはローズマリー、きみもいたっけ。きみ……。自分の中の擬人化スピードに運命を感じたわたしは、ローズマリーの鉢を抱えてレジへ向かった。

 少し重たい荷物をぶら下げ、片腕にはローズマリーを抱いている。部屋に着くと、玄関に荷物を下ろし、電気を付け、四角いテーブルにそっとローズマリーを置いた。手洗いうがいをして、コップに水を汲み、ローズマリーの根元にそっと水を注ぐ。ふと「旦那さんってどういうひとなの?」というツルちゃんの質問を思い出す。無口だ。喋ったら怖い。草食系というより草だし、ガツガツしているわけがない。ローズマリーはヒトではないけれど、光合成をして生きている。そして、わたしの部屋に存在している……即ち旦那では? これで、少しくらい甲斐性があればなぁ、とわたしは早速生まれた惚気とも受け取られかねない小さな不満を口にする。

 買ってきたものを戸棚にしまいながら、週明けにツルちゃんに渡す予定のハンドクリームを入れる袋を探す。昨年のバレンタイン、職場の上司にチロルチョコを入れて配った残りの包装ビニール袋を見付け、ホワイトデーにもらったお菓子に付いていたリボンで結んだ。再利用ラッピングだとは気が付かれないだろう。ここで、発泡酒を冷蔵庫から取り出し、一週間の疲れと喉を潤していく。冷蔵庫のなかを見ながら、何を作ろうかのんびりと考える。チルド室に横たわる鶏のむね肉を見た瞬間、わたしはそのトレーを取り出して、ローズマリーの方を見た。胸がドキドキする。

「あの、甲斐性のことなんか言って、さっきはごめんなさい。あなたを少し、分けてもらうね」

 茎を一本手で千切ると、ほのかに爽やかな香りがして、かすかにわたしのこころも傷んだ。フライパンにオリーブオイルと軽く水洗いして拭いたローズマリーを入れ、火を点ける。角切りにして塩胡椒を振った鶏肉を入れて焦げ目が付くよう強めの火で焼く。両面に焦げ目が付いたら、少し火を弱め、白ワインとレモン汁を加え、蓋をして火を通す。発泡酒を呑んで待ちながら、わたしはこれからローズマリーを食べることを想像していた。鶏肉は添え物でしかない。ローズマリー。わたしがあなたを噛むとき、どんな音をたてるだろうか。口のなかでゆっくり味わうと、香りが鼻腔を刺激して……セックスじゃん、と頭の中で誰かがクスクス笑う。あなたは (口腔から食道を通り、胃腸の中で) わたしの身体に吸収され一部となり、そうでなかったものは身体を抜けて出ていってしまう。この香りで満たされた蓋を開けたら、わたしは鼻血でも垂らすのではないかと思う。酔っているのだろうか。

 火照った顔を左手で押さえながら、その薬指に指輪が馴染んできたことには、まだ気が付かないのだった。