たどたどしさ

 アパートにて暮らしているので、何かが壊れると管理会社に電話して、修理業者がやってくることがある。また、ガスや電気の点検が入ることも。今のところ、毎回別の男性がやってくる。
 修理や点検が終わると、これはもう何万回も話してきました、というようななめらかさで、説明や注意事項などを話されると、わたしは道端に立っている電柱になった気持ちになる。(電柱の気持ちなど分からないけれど)
 そこで質問があればしてみると、相手はやっとこちらをはっきり認識した様子で、先ほどまでの紋切り型のしゃべり方とは声色やスピードが変わっていく。そこに、そのひとが垣間見れる気がして安心する。
 わたしは日常の中で、わたしにできない仕事ができるひとを観察するのが好きだ。そして、おそらくは自分がはたらいているときに、このように他人から見えているのだろうなと思うと、とりあえず背筋が伸びる。

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 普段、農業を営んでいる男性がPTA会長になり、ある講習会の講師に感謝を述べる場面があった。わたしは一端の役員として参加し、それを聞いていた。彼は大きな身体を緊張したように縮こませ、マイクを握り話しはじめた。途中で言葉に詰まり、おそらく考えてきたことを思い出しながらの、文章自体は短く時間はすこし長い、そんな挨拶だった。たどたどしかったが、感謝を伝えるため懸命に話す姿が、わたしには好感が持てた。
 その後で校長先生が、これまた何万回も話してきました、というような流暢な挨拶をしたのだが、まったく頭に残らなかったので、余計にそう思ったのかもしれない。

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 わたしの生活にも、たどたどしくなる瞬間はおとずれる。流暢に話せるときは、それを繰り返してきたとき(練習も含む)、それについて考えてきた時間の長さもあると思う。
 しかし、すぐには答えられないことを尋ねられたり、簡単に結論付けられないことに意見を求められたり、思いがけない相談をされたり、何かおかしいなと思う気持ちが言葉にならなかったり。
 ゆらゆらとした気分によって移り変わる自分がいることを知っているから、前向きになったり後ろ向きになる自分を知っているから、偏った見方をしている可能性を思うから。生活のある瞬間、わたしは躊躇して、言葉に詰まり、たどたどしくなる。

終わり

画像は寒かった日のプレーリードッグ(上野動物園)。