読書と体力

 「断片的なものの社会学」を読んだ。なにかを書こうとするのなら、いま読めて良かった。熱いうちに文字を打てない方だけれど、読みながらメモしていったことなどを、とりとめもなく書き残しておく。ただ、自分のために。冷めてから訂正することもあるだろう。著者に対して失礼なところがあれば、わたしの未熟さなのだと思う。


 イントロダクションとはじめのふたつの章を読んで、わたしの頭の中では混乱が始まった。わたしの中のおじさんが「俺には難しいからもう飲もう」と訴え、屋根裏部屋に憧れる少女は「もう少し読んでみようよ」と言い、知ったかぶりをした青年は「金持ちのお遊びという表現が」と気取って本を閉じようとする。頭のなかが騒がしい。それでもわたしは、屋根裏部屋に憧れた少女を信じて読み進めると、「土偶と植木鉢」という章で、話をしようと言えないから鍋をしようと言い、お互いの目を見ずにすむから鍋を囲む、という描写で、自分にもよくある行動を、思考として言語化されたことに驚いた。少女は「ほらね」という得意気な表情をして、そのほかの騒いでいた者もみな静かになり、わたしは本を読み進める。

 著者の出合った断片を読むと、出来事になんらかの物語や意味を持たせない、という意志を感じる。そして、物語にせずとも、断片が五感を震わせることが、なんだか怖くなってくる。著者自身も「わからない」とよく書いているくらい、読んでいるこちらもかたくなった思考を揺さぶられ、「わからない」と言いたくなる。語りの聞き取り(やり取りを含めた実践)を描写する章は、著者の仕事をこっそり垣間見るようで好きだったし、ある章の「しかし、笑うこともできる。」という一文を読んだときには、思わず本を置いて泣いた。

 ユッカに流れる時間、の辺りからは読んでいて苦しかった。哲学的な試行錯誤や恐怖の描写や壁について、これを読むのは自分の調子のよい時にした方がいいと思う。また、他人の断片に自分もなんらかの当事者として触れるときは血を流さないよう文章だけに集中して読み、さらに偏見を持った自分を発見するときはとりあえずそれを意識して脇に置きながら読むようにした。最後には目で読むことがきつくなって音読したが、それでも著者の意味を持たせない姿勢に救われながら断片を読んだ。

 この本を図書館で探したとき、914.6の分類で登録されていた。エッセイ、随筆、評論の分類だが、置かれていたのは社会学の棚だった。わたしは図書館でうろうろと彷徨った末、この本を偶然見つけられた(司書に聞けばすぐ辿り着いただろうけど、ひとりで探すには迷う)。それが示すように、この本は分類に迷うものを書いており、簡単に分類することへの疑問を投げかけ、読んでもそれをどう受け止めるのかは読者に委ねるような、分類できない本だった。読みながら身体に力が入っていたのか、体力を使う読書というのを久し振りにした。体力を付けたいとこころから思った。

読了


追記……年を越して「図書室」を読み始めた。今日(1/4)単行本の名でもある「図書室」読了。面白かった。主人公と僕の会話が特に好き。子どもの想像力と弱さと生きる力が言葉にまざって眩しく光っていた物語だった。

(再掲)