短編 「共有ファイル」

 冬の暮れ。遠い親戚の不幸のため喪中のぼくは、特にすることもなく、ひとり炬燵に入りながら、ブルーベリー風味の紅茶を飲み、部屋から窓の外を見ていた。雪が舞いそうな、湿って重たそうな雲が空を埋め尽くしていた。既に、山肌には白く筋が通り、もし麓にも雪が降るなら、雪かきをしない程度にしてほしいな、とぼんやり思った。

 子どもの頃、雪は遊ぶものであり、ちょっと食べるものだった。学校へと歩く道すがら、白く積もった雪面の中から、まだ誰にも手をつけられていないだろう場所に検討をつけ、そっと手で掬い取り、口に入れる。こんなに白くてきれいに見えても、溶けた雪は水とは違う、不思議な味がした。おいしいわけではないのに、ぼくは高校生くらいまで、雪が降ると毎年味見をした。いつから雪を食べなくなったのか。大学に進学して、一人暮らしを始めてからだ。そこは、雪がほとんど降らない街だった。ぼくがその街で暮らしたのはたった四年間で、また田舎に戻って就職したというのに、雪を食べるぼくは、もういない。

**********

 たしか、あれは高校二年の夏休みだった。普段は、朝も夜も部活動でほとんど留守にしていたぼくが、たまたま家に居たのだから。きっと夏の大会が無念にも地区予選で敗退した後だろう。

 どこにも来ていけない柄のTシャツと、中学のジャージの長さを半分に切ったやつを履いて、網戸を引いた窓を開け放ち、扇風機を強に設定して畳に寝転んでいた。蝉がうるさくて、汗が肌を伝う。でもそのままじっとしていると、ふと心地よいまどろみに包まれる。冷蔵庫には麦茶が1.5Lプラスチック容器に冷えていて、冷凍庫にはパック入りの小さなアイスがいくつかあるはずで。ぼくの夏の休日はとりあえず、それで満たされていた。

 遠くにスクーターの音が聞こえた。このまま眠ってしまおうと、その音すら蝉の鳴き声と溶かしていくと、ぼくの子守唄となる。

 玄関のチャイムが鳴った。外にはスクーターのエンジン音が響いている。一瞬だけ、眠っていたぼくは、気だるく目を覚ました。郵便配達だろうか、それならこのまま眠ってしまいたいと思った。またチャイムが鳴る。ドッドッドッド……というスクーターのエンジン音が、早く出ろよと言うようだった。ぼくは渋々と起き上がった。

 ドアを開けると、立っていたのは父方の祖父だった。近くの市に住んでいるものの、交流は少ない。年に一度か二度、家族で挨拶に行ったりするくらいだ。ぼくは一対一で会うのは初めてだった。何をしに来たのか、寝ぼけた頭には理解できなくて、ただ「こんにちは」と言ったきり、言葉が続かなかった。

「お線香を上げさせてもらえますか」

 先ほどまで畑仕事でもしていたような、ラフな作業着と長靴、日よけのキャップ。このとき、なぜ冷えていた麦茶を出さなかったのか。今、その姿を思い出すと、あの日の自分の後頭部を叩いてやりたいと思う。

「……どうぞ、こっちです」

 祖父の家には、よく見つめたことはないけれど、立派で大きな仏壇があった。ぼくの家にあるのはその半分くらいの、母方の祖母を含めた御先祖様のこじんまりとした仏壇だ。しかし、母がいつも季節ごとに庭の花を活けているので、さみしい仏壇ではないと思う。祖父は自分でろうそくを灯して、線香に火をつけた。そして、仏前に供えると、鈴を鳴らし、静かに手を合わせた。数秒間ののち、祖父は立ち上がり、世間話など何もしないまま、ぼくに軽く礼を述べ、またスクーターに乗って帰っていった。

 パート仕事と買い物を終えて帰ってきた母に、祖父がスクーターで突然やって来て仏壇に線香をあげて帰った、とそのまま伝えた。母は目立って動揺したり表情を変えたりはしなかったが、ぼくは少なくとも母の中では何かを確かに感じていることを思った。その夏の出来事があったからといって、特別に何かが変わったわけではなかったけれど。

 ぼくは、母から家族の話をよく聞かされていた。母方の祖母は、ぼくが生まれる前に亡くなっているので、一度も会ったことがない。しかし、母が語る祖母の話は、いつも愛情に溢れていて、ちょっと情けない話も出てくるが、ぼくはどこか聖人のようなイメージを持っていた。父はというと、あまり家族の話をしなかった。こちらが尋ねれば話してくれるものの、自らがすすんで話すことは少ない。

 父は勘当され、母と結婚した。理由は、江戸時代と同時に滅んで良いはずの、時代錯誤の身分差別が元だったと聞く。長男であるため財産を放棄し、母とその家族と生きていくことを選んだ。選んだとは結果であり、恐らく父は、その道を選ぶしか方法がなく、本当は親に認めてもらいたかったのだと思う。母は、今はそんなことほぼ無いはずだから、気にしないでほしい、とぼくに言った。でも、いちばん気にしていたのは母だったと思う。

**********

 冬の空気は澄んでいて、晴れていれば星がきれいなのに、今夜は雲が隠してしまった。祖父はあの時、亡くなった母方の人たちを前に、何を思っていたのだろうか。それを聞く前に祖父も亡くなってしまったが、そもそもそんな話をする仲ではなかったなぁ、と気付く。やはりあの時、冷たい麦茶を一杯出していれば、ぼくらは何らかの世間話をしたのだろうか。わからない。それでもあの夏の日、ぼくの目の前で、祖父は仏壇の前に座り、線香を供えて、手を合わせていたんだ。それは、ぼくが祖父を懐かしむための、二人だけの共有ファイルとして、記憶の波を漂っている。そして時々こうして思いがけないときに岸に辿り着き、ぼくは中身を確認し、また記憶の海へと手を放す。それだけで、もう十分な気がした。