生きてるだけで多弁

 朝、起きたら部屋の窓を二ヵ所、少し空ける。猫もたいてい起きていて、朝日のあたる出窓で、発電でもするかのようにジッとして太陽光を浴びている。おはようと言うと返事をするので、猫もあいさつくらいは分かるのだと思う。

 顔を洗い、化粧水をパタパタと顔につけ、ヤカンに水を汲みコンロの火に掛け、換気扇を回す。お湯が沸くまで、ゆっくりとラジオ体操第一をする。観ていたドラマの影響を受けている自分は、案外ミーハーなのかもしれない。間違えたりはするけれど気にしない。それよりも、急いで動かして腰を痛めたりする方が怖い。今日はちょっとダルいな、など身体と対話する。

 小学生だった子どもの夏休みに、自分がラジオ体操の当番になり、保育園の園庭で体操を終えた子どもたちに、出席のハンコを押したのは、楽しい思い出だ。

 途中でヤカンがシュンシュン言い出したらガスを止め、体操の続きをする。まだ朝の空気はひんやりとしていて、最後の深呼吸が心地よい。子どもが使わなくなった1Lの水筒に、沸いたお湯を入れておく。これで夕方くらいまで、好きなときに温かい飲み物が作れる。新鮮な空気に包まれた部屋で、一人余ったお湯で入れたお茶を飲む。

 朝食の用意をしていると、その内に子どもが「おはよ……」と目を覚ます。寝起きが悪い。無防備な表情が見られるのは、寝ているときか、この瞬間くらいになった。たまに、わたしが起きるのが遅くなり、子どもが何か作り始めていることもある。

 最近、校外の教育支援センターへ通うようになった子。わたしが悩んでいた時期に相談に行った場所であり、信頼できる先生がいる。もうすぐテストがあり、受けたいという子どもの希望があり、そこでも可能だと知った。テスト前に、場所に慣れておく必要があるね、と親子で話して、まずは見学からはじめた。個室のあるそこで、数時間勉強して過ごすようになった。大きな進歩だと思う。

 わたしものんびりしてはいられないので、就労支援の方に相談し、仕事を探し始めている。選ばなければ仕事はある。ただ、もう少し子どもが落ち着くまでは、両親に任せるのは不安でもあり、こういう気持ちの揺れがあると、たいていは決まらないものだ。焦りはあるし、もどかしくて時々イライラするので、ひとりの時間を意識的に作るようにしている。

 一度、世に聞く圧迫面接というものを受けたときは、衝撃的だった。ストレス耐性を見るという目的らしいが、わたしには向いてなかった。今なら席を立ち、「申し訳ありませんが、辞退させていただきます」と言って帰ると思うが、当時は真面目に受けて、ボロボロの豆腐みたいになった。ほかにも、「次のお子さんの予定はあるの?」という質問をしてきた面接もあった。そういう面接に当たってしまった時、わたしはここでやっていけるのだろうか、と自信を無くす。

 それを補うためなのか、違うベクトルで自分を生かそうとして、こういう時期に何かを書くことが多い。何なら今も少しずつ書いているものがある。こうして書くことだけは継続していく。

 生活には心の余裕があるのか、花を飾るようになった。母の育てた庭は、いま薔薇が見頃で、少しだけ分けてもらう。今朝、その水を替えようとして、満開の花に指が触れると、前触れも音もなく、花びらが次々に落ちていった。わたしは目の前で滅びていく花を見ながら、その美しさにしばらく見蕩れていた。その茎には枝分かれして一つの蕾がある。わたしは鋏を手にし、花の枝を根本から断ち切ると、それを花びらの上に横たえた。生きているだけで多弁。わたしは少し、喋りすぎかもしれない。

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