世田谷の公園に居たきみへ

前略 お元気ですか?

 あまりに久し振りすぎるし、きみと過ごしたのはたった数ヵ月のことだったから、誰だか忘れていてもおかしくないと思います。でも、わたしはきみを今も覚えています。

 きみはあの時のように、泥の上を走り回ったりしてはいないかもしれないけれど、この社会で楽しく過ごしていることを願います。

 当時、わたしはただの二十歳の学生で、何か面白そうだから取材にならないかなという少し不純な気持ちで、その場所に居させてもらっていました。そこを見守る大人たちには身分を明かしていたけれど、きみは知っていただろうか。たぶん、勘のいい感受性の鋭いきみのことだから、わたしの目的などお見通しの上で、相手をしてくれていたんだろうと思います。

 あの時のきみは、はっきりと尋ねませんでしたが、中学生でしたね。ふらっとその場所に現れては、自分より幼い子どもたちと遊んだり、大人たちと話したり、昼間集まるおじさんたちがやっている将棋を眺めたり、売店で駄菓子を買って食べたり、気が付いたら居なくなり帰っていたりしました。

 わたしに将棋を教えてくれたのは、きみでした。駒の特徴をひとつずつ教えてくれたあと、いざ勝負となり、わたしが動かし方を間違えたり、二歩という凡ミスをすると、それを指摘しながらも嬉しそうに笑っていましたね。ドクターペッパーを美味しそうに飲むので、わたしも初めて買って飲みました。あれはちょっと健康に悪そうで、癖になる味でした。

 わたしたちは、おそらく六歳ほどの年齢差で、当時はその差を大きく感じました。きみは未成年でしたから。大人になってからの六歳差は、それほど変わらない気がします。

 きみは、少年と青年の間にあり、とても自由に過ごしているように、わたしの眼には映りました。けれど、もしかしたらきみの中にも、葛藤や悩みがそれなりにあったのではないだろうか、ということを最近思います。もちろん、選択的にそう過ごしていた可能性もあるし、たしかきみの親御さんもそこに居ることを了承していたと記憶しています。

 わたしはきみの、その今しかない、ピーターパンのような姿を撮りたいと思いましたが、結局一度もカメラを持ち込みませんでした。企画として考えていくと、きみを撮ることで、何らかの意味や問いや記号が発生し、それらのシールをタイトルにしなくても貼ることになりそうで、そうしたくなかったからだと思います。

 そこはきっときみの安心できる居場所のひとつだったと思うし、きみはわたしの将棋の先生で、ドクターペッパーを一緒に飲むような、その場所の先輩でもありました。その関係を傷つけたり、壊したくありませんでした。

 わたしはその後、書く方の仕事をしていたときに、都会に子どもの居場所や遊び場が少ないという企画で、きみの居たような場所を改めて訪れて、取材して記事にしました。やっぱり、あの時きみを撮らなくて良かったと思います。

 あれから、わたしは子どもを産んで、親になりました。子どもが幼いときに選んだ幼稚園は、木造を活かした園舎で、夏は裸足で泥だらけになって庭で遊ぶ、という教育方針でした。あの場所を彷彿とさせるものがありました。子どもはそこでのびのびと育ち、小学校も卒業しました。

 中学生になった子どもは、あるきっかけから、徐々に不登校になりました。戸惑ったわたしは、ずいぶんと頭が頑なになってしまいました。子どもの変化を受け入れられない、そんな自分を情けないと責めたりもしました。子どもの揺れ動く気持ちを見つめながら、だんだんとわたしは柔軟さと落ち着きを取り戻してきた気がします。

 そして、きみを思い出しました。
 うちの子は、ピーターパンというより、イメージだけでいうと、ティンカーベルみたいなときと、チクタクワニを怖がるときのフック船長みたいなときがあります。なかなかのワンダーランドです。

 まずは家を居心地の良い状態にすることと、外にも居場所となりそうなところを探しています。幸い、一ヵ所は良さそうなところが見つかりました。子どもが動き出すのを待つこと、傷付いているところはケアにつなげること、そんなことを意識しています。わたしもまだ迷いますが、子どもの表情がヒントをくれていると思います。

 過去のきみは、今のわたしのコンパスのようです。親として道に迷いそうになるとき (もう何度か迷いましたが…)、きみを思い出すと、今いるところが分かるような、光の射す方角が分かるような気持ち。あの時、大人としては微妙な存在だったわたしを受け入れてくれて、ありがとう。

 大人になったきみと、あの世田谷の公園で会うことは、おそらくないだろうと思います。

 名前も住所も知らず、宛先も分からないので、ここにこの手紙を置いておきます。いつか、きみがこの手紙を読むことがあったら、それこそ奇跡だなと思いながら。

 どうかお元気で。

草々