ドキュメンタリーはフィクションと思っている

 わたしはよく書いた記事をあとから直すので (推敲しろ…)、これもそうなるかもしれない。とりあえずタイトルのことを書く。 (タイトル見て、そんなのとっくに知ってる、と思った方…静かにページを閉じてください)

 先ほど、ある記事を読んで、それに対する読んだひとの反応などを見て思ったのだけれど (どの記事かは伏せます)。まず、ドキュメンタリーはそのほとんどがフィクションだということを、知らないひとが多すぎるんじゃないかなぁということ。わたしは映像制作を学んだことがあり (若かりし頃…)、自分がいちばん驚いたのはそこだったから、余計にそう思うのかもしれない。

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 映像はカメラを回せばいくらでも撮れる。その膨大な映像をカットして、つなげて、監督が何を伝えたいのか、それに向けて編集する。撮影は一度きり、ワンカット撮影 (長回し)、全く編集なし、雑音やノイズも入ったまま。そのような映像は商業作品になるだろうか (実験的な作品にはなるかもしれない)。奇跡的な一瞬はあるかもしれないけれど、何時間も見続けられるものになるだろうか。(余談、うちの子の小さいときの学芸会の映像はこれに相当してしまう…。)

 意図的に編集する行為が入ったものは、全てフィクションと、わたしは思っているのだが、出てくる人物や場所などは、この世界にたしかに実在する (した)。それがドキュメンタリーを称する意味と、その扱いの繊細さを表しているとわたしは思う。

 監督と出演したひとの思いが食い違えば、作品自体だけでなく、人間関係さえ壊れていくこともあると思う。撮る側と撮られる側の信頼が築けなければ、そもそもカメラを向けることを嫌がられるだろう。しかし、両者の思いが重なれば、ものすごい熱量の作品となることもある。そういう怖さと面白さを含んだフィクションが、ドキュメンタリーだと思った。(余談、マイケル・ムーア監督の作品、大好きなんですが、その食い違いをこそ狙って描いているときもあると思う。)

 この撮影者との距離感の築きかたが、すごく得意なひとを間近で見てしまうと、わたしは圧倒されたし、かなわないなと思った。そして、自分は撮るより書く方が、まだマシに表現できるのではないかと思えたので、転向した (挫折ともいえる)。

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 しかしエッセイも、ドキュメンタリーにかなり似ていると、個人的に思っている。わたしのエッセイも、記録でなければ、再構成したフィクションだと思っているし、ほかの人が書いたものもそういうふうに読んでいることが多い。もし、わたしが筆名で書いたものを読んだ人が近くにいて、普段のあなたとは違いますね、なんて言われてもあまり気にしないと思う。 (余談、フィクション=虚構の物語を書いている方が、本当に思っていることや自分の内面がさらけ出せている気がする…。)

 ときどき、子どものことを書いているが、「こういうこと書いてブログに載せてもいい?」と、本人に確認を取ることもある。わたしが主体の記事で、これくらいならいいだろうと思える部分は、そこまで確認していない。あとは、いまわたしは本名で書いていないこと、本職は別で、書くことを仕事にしておらず誰かからお金をもらっていないこと、これが個人的には今ちょうどいい。

 長くなったけれど、目が疲れたので、この辺にして終わりにする。ちなみに、わたしの目が疲れたときのオススメ商品は以下。「あずきのチカラ 目もと用」。コスパ良、使用中の寝落ち率高、小豆の重さと香りが好き。従兄弟にもらって使いはじめてから愛用して、最近買い直した。勝手に広告が入ってくるここで、さらにアフィリエイトをやる予定もないので、一代目の写真だけのせておく。

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